創成期のESSと私
2回生 鈴木 登
1954年(昭和29年) 六甲台を巣立ちました2回生 鈴木 登です。
経済学部金融経済論の大家 新庄博先生のゼミナール出身です。Club活動はESSでした。
先ず、今年もUnion Club 年次総会の開催に尽力された横尾会長、
総会担当井上佳美さんはじめ、関係スタッフの方々に感謝いたします。
有難うございました。
橘家円鏡師匠という落語家がおります。
この人の人気絶頂期、チンがくしゃみをしたような顔で出てきて、高座につくと、
「足乳根(たらちね)の母の胎内を出でし頃、眉目秀麗の男の子(おのこ)なりしがーーー」
と切り出すと、お客がどっと笑ったものです。
私は、「足乳根の母の胎内を出でし頃、色白の無口でおとなしい子供」でした。
それが今はこのような高いところから、お話しするのが平気になりました。
この変化の原因は、神戸大学に入ったこと、そしてESSで鍛えられたためだと思います。
皆様からご覧になって、私が「心臓」が強いように見えるなら、
それは神戸大学とESSの所為であります。
私は、本日の真打Speaker 小西雅子さんの前座を勤めます。
「創成期のESSと私」このTitleで短時間お話しします。
このテーマを話すにふさわしい方は、ESSを文字通り創設された初代 President 竹村博夫さん、そのパートナー上野陽さん、こういう尊敬すべき先輩であります。
残念ながら竹村さんは今病床にあり、上野さんは腰痛で今日出席できるかどうか
不安があるということで、総会担当の井上さんから私に
Pinch Hitter としてButter Box に立つよう要請がありました。
このPinch Hitter で前座の役割を喜んでお受けしたのは、
数回しかお会いしていない井上さんは、5分会えば知り合い、10分で友達、15分で親友、
20分で身内にしてしまう魔力の持ち主で、私もコロリとやられた次第です。
さてESSの創成期について特筆大書すべきは、やはり竹村博夫さんのことです。
50年以上経った今でも鮮明に思い出す、このGreatで個性豊かな先輩は、
神戸大学ESSの歴史上の人物と言えます。
そのLeadership、行動力、組織力どれをとっても学生としては超人的なものがありました。
竹村さんは大学卒業後、東レの国際畑で活躍され、Sydney、Sao Paulo、香港、New Yorkに駐在。
まさに東レの国際業務の最前線で、同社の発展に貢献されました。
1949年4月、新制大学1回生になった Pole Hiroo Takemura は、仲間と語らって、
その年の7月2日にESS(English Speaking Society)を設立しました。
その9月にはESS Times 創刊、続いて12月には、当時英語学習の重要な場になった
Bible Class が発足しました。
設立当初、御影にあった教育学部ESSと、どちらが本家本流かという対立があった模様ですが、
程なく教育学部も合流し一本化されました。
当時の記録を読むと、ESSは巧みに組織化されていました。
Reading、Composition、Journalism、Women’sの各Club と Bible Classがあり、
Accounting、Recording の Secretaryがおかれていました。それに Memberの住所地域毎の
Regional Bloc もあり、それぞれ英語力upを目指すシステムがうまく構築されていました。
加えて Adviser に、Roy Smith教授、経済学部 宮田喜代蔵、文学部二宮尊道、
教育学部 植木敏夫各教授、そして山田金作 経営学部事務長の豪華布陣でした。
ほとんどの文書がPCで作られる現在、想像も出来ないでしょうが、
ガリ版でESS Times を作りました。中学校の先生に格安のアルバイトをお願いしたものです。
写真が必要な場合は、毎日新聞の写真部長に無料で提供していただきました。
何分月額50円の会費ですから、このような外部の支援で何とかやりくりしたものです。
また竹村President は、ペラペラ英語をしゃべるだけの Group になってはならない、
言葉は Speaking, Hearing, Writing, Reading のすべてが出来なければ使いこなせない、
ということで、ESS を English Study Society と改称することを独りで決めました。
Roy Smith 先生に相談したところ、“You can’t talk without ideas” と言われて
直ちに賛同されました。これは ESS の歴史上非常に重要な契機になったと思います。
窮屈な財政をやりくりして、このように ESS の基礎をしっかりと築かれた竹村先輩の功績を、
私は忘れることが出来ません。
これを可能にしたのは、「大学No.1のESS をつくる」と言う同先輩の夢と目標、 それを旗印に
有無を言わさず、やや強引に Member を引っ張った情熱とCommitment であったと思います。
竹村博夫先輩の話を語れば、1時間くらい直ぐに経ちますが、
一つだけ同先輩の生きざまを象徴する Episode をご紹介します。
1951年2月12日竹村さんは,当時日本を占領していた連合軍最高司令官
SCAP(Supreme Commander for Allied Powers) General Douglas MacArthur に
ESS Times に寄稿を依頼する手紙を出しました。
“We shall be most gratified if you kindly spare your busy and valuable time to give us your frank opinion on the present Japanese young generation.”
これに対し、3月26日付で、総司令部民間情報教育局CIE( Civil Information and Education )
局長(Chief)Nugent 中佐から, “General MacArthur has read your letter of 12 February and asked me to reply.” で始まる返事が来たのです。
手紙はさらに続けて「貴君の要望は認められた( Noted )が、General MacArthur の
Statement を特定の新聞だけに出すことは出来ないので、すでに発表されているものを
載せられてはどうか」という内容でした。
MacArthur の生地 Virginia 州 Norforkには、立派なMacArthur Memorialが建てられていますが、
そこに竹村先輩のLetter が保管されております。
聞くだけでもわくわくする Excitingな話で、アメリカ旅行の際、
足を伸ばして記念館を訪問されてはと思います。
この往復書簡の話は、1985年(昭和60年)9月1日の東京新聞に、同社水谷New York特派員が、
東レアメリカ社長をしていた竹村さんを訪問取材し、
「マッカーサーへの手紙」と題して報道されました。
占領時代、天皇陛下がモーニングの正装で、平服の第一ボタンもとめていないGeneral MacArthur
を訪問した写真に、私は少なからずショックを受けました。
占領下ではMac Arthur が、天皇を凌ぐ最高権力者でした。
その人に一大学生が直接手紙を出したのです。竹村さんの勇気と行動力を語る
神戸大ESSの歴史の輝かしい1ページであると思います。
また最高権力者がこのような手紙を読んで、部下に返信させた訳で、
ここにアメリカの良さを感じますが、格調高い立派な英語で熱意と真情を吐露した手紙が、
その人を動かしたと言えるのではないでしょうか。
もう一つの Big Newsは、一回生 上野陽先輩が、1951年6月30日毎日新聞社主催の
MacArthur杯弁論大会(MacArthur Award Oratorial Contest)で見事4位(Honorable Mention)に
入賞したことです。上野さんは、中学/高校を通じて私の一年先輩ですが、
かねてから関西学院の Linde 先生から発音指導を受けておられました。
日ごろの努力がこの栄誉を招いた訳で、毎日新聞、英文毎日等で報じられ、
神戸大学ESSの名を高めました。
このように神戸大学ESSは、Founding Father ともいえる一回生の「日本一の大学ESSを実現しよう」
という夢と強い Commitment でスタートしました。そして困難な条件の下で成長し、
また特記すべき実績を挙げました。二回生の私達以下は、その指導を受けて英語力の
向上に努めてまいりました。
以来50有余年を経て現在、神戸大学ESSが活躍していること、そのOB/OGの会である
Union Club がいろんな形で英語力向上に努めると共に、活発な交流をしていることを
心から喜ばしく思います。
私はこういう機会に「間違いだらけの英語教育」というテーマで、お話ししたかったので、
最後に英語学習のあり方と英語力のレベルアップについて、日頃私の考えていることの一端を
お話して締めくくりたいと考えます。
何よりも先ず私は、「夢」を持つことが、非常に大切であると思います。
「夢」を、実現を目指す「目標」にまで具体化できれば、Betterです。
子供時代、学生時代、社会人、それから熟年さらに高齢者にいたるまで、
とにかく「もの心」がついてから天に召されるまで、人間は「夢」を持たねば前進しない、
成長しないのではないでしょうか。「夢」は、私達の Driving Force です。
私が学生時代抱いた「夢」の一つは、英語を通じて世界、国際舞台に出て行こうということでした。
結果的に約40年働いた職場で世界50カ国近くの外国を旅行し、New YorkとRio de Janeiro で
合計9年生活しました。ブラジルでポルトガル語を使った以外は英語で Communication をし、
英語の Documentや Information をベースに仕事をしてきました。
その経験を通じて、日本の学校での英語教育に強い問題意識を私は抱いております。
1)第1は、発音の勉強が非常に大事であるということです。
私が中学校に入学した時は、1944年(昭和19年)で、戦争末期でした。
英語は、敵の言葉(敵性語)とされていました。英語の授業はありましたが、重点教科ではなく、
担当教師のレベルは高いとはいえない水準でした。
私の弟は、その三年後同じ中学校に入学。学制が新制度に移行し,中学/高校が3年制で
スタートした年でした。英語教育充実のため関西学院から迎えた、最高の先生に英語を習いました。
弟によると、「最初の3ヶ月程度は、教科書には入らず<万国音標文字>をひたすら教わった。
1時間に2/3個の音標文字をとり上げ、黒板には鼻、口腔、のどの断面図を書いて、
先生が正確で美しい発音をする。」「生徒は、この断面図をノートに書き写し、先生の発音に
あわせてくりかえし音に出す。」「ことばは音だから、外国語のフリガナにあたる音標文字と
その発音を徹底して教えられた。」
こうすることによって、正確な英語の発音ができる基礎をつくると同時に、英語を聞きとる
耳もきたえられるということです。こういう英語入門をしなかった私は、60年以上英語にふれながら、
Hearing 能力が他の能力に比べて極端に低いと自覚しており、今もいろんな方法で訓練しています。
2)第2は、英語以前に国語(日本語)の Power Up をすることです。
それと英語は読み書き重視です。正しく美しい日本語が話し、書けなくては立派な英語をしゃべり、
書くことは不可能です。中学生までに日本語をしっかり学び、それを継続的に磨くために、
本をよく読み、文章を書く習慣をつけることが大切です。大学生になれば、内容のあることを書き、
語ることが欠かせません。
英語をペラペラしゃべる日本人の多くは、相手の外国人と充分 Communicate できていると
考えているようですが、相手は言っていることが判っているだけで、心の中で「うすっぺらな日本人」
と考え、とても尊敬される友人にはなれません。また英語の読み書き能力を高めないと、
知的で美しい英語の会談などできないことも銘記すべきです。
英語の読み書きの重要性は、神戸大学法学部1981年(昭和56年)卒、現在伊藤忠商事調査室長
三輪祐範君が昨年出版した Best Seller 「四十歳からの勉強法」第4章<わたしの英語上達法>
の中でも書いています。著者は、TOEIC985点ですから、説得力があると思います。少し紹介すると、
「英語の勉強において会話と讀解のどちらが重要かと問われれば、わたしは躊躇なく、
それは讀解である。」著者が勤務する商社でも、海外駐在時以外は英語を話す必要性より、
英文入札書類や契約書などのビジネス・ドキュメントを読んだり、海外の担当者とメールで
やりとりしたり、情報収集のための欧米主要紙、雑誌、論文を読んだりするといった、英文を
正確に読んで書く必要性の方がよほど高いと言っています。
3)第3は、Logical Thinking に努めることです。
英語は日本語よりはるかにLogical な言語です。交渉に際し日本人はともすれば、相手の「情」に
訴えることも少なくありません。国際交渉では、Logic がしっかりしていなければ勝負になりません。
平たく言えば、「一本筋道の通った話しをする」ということです。論理的に相手を追い詰めて、
「参った」と思わせるのが、国際交渉の王道です。そのためにはいろんな本を読み、英語の文章を
書くことが役に立ちます。それと考え抜く「くせ」をつけることです。
ESSに Debate の Group があると紹介されましたが、これに力を入れ、問題の本質を速くつかんで
議論する習慣をつけてください。日本人は細かく Minor な点に捉われがちですが、根本的な
ポイントは何かを理解する訓練を続けることが大事です。
私が職場で指導を受けた、臨調で活躍された 瀬島龍三さんは「脳漿をしぼれ。
そして複雑を極める問題でも、三つの基本問題に絞って、対策を考えよ。」と常に言われました。
この教えは論理的思考力を磨くのに非常に役に立ちました。
4)最後の第4点。それは Sence of Humor です。
論理性を磨き高めることが、国際交渉成功の鍵であると言いました。しかしLogicを 駆使して
ギリギリやり合うと、時として角が立つような局面も避けられません。交渉ごとに「喧嘩別れ」は
最悪のシナリオです。そこで学ぶべきは、適時にくり出す Joke です。ここぞという時にJoke 一発、
これで場の雰囲気は和み、交渉妥結、契約調印に至ることもある訳です。
日本にも落語、川柳等笑いの文化があります。お笑いも軽視せず、自分の「引き出し」に入れて、
当意即妙いつでも取り出せる Joke を持つよう努めるべきと思います。
私と同期の経営学部出身の加藤秀高氏は、ダイヤモンド商として日本のトップ会社の Owner 経営者
です。昨年「ダイヤモンドアンバサダーとして歩んだ50年」という自叙伝を上梓されました。
寄贈を受けたこの名著を一気に読みましたが、商売にきびしいユダヤ人との難交渉を
永年やってきた経験から、交渉に際し論理性を高めると共に、 Joke を磨けと力説しています。
「夢」を持ちましょう。そして1)正しい発音 2)内容のある良い日本語と英語の読み書き
3)Logical Thinking 4)Sense of Humor (Joke) 世界が皆様を待っています。
ただいま申し上げたことを続けていただければ、いつの日か世界あるいは国際舞台で
大輪の花を咲かせることができることを確信しております。
私が今日あるのは、神戸大学とESSに負うところ大であります。
従って私はこのご恩にお返しをしなければと考えております。ESSの後輩の皆様が、
私の知識と経験がお役に立つとお考えなら、いつでも声をかけてください。
2月16日に、神戸空港が開港すると聞いておりますので飛んで参ります。
恩師 Roy Smith 先生はJoke の大家でしたが、それを全部記録していれば本にできるほどでした。
その先生の名台詞を紹介して、私の Speech を終わります。
“Anotable speech is no table speech” Thank you.
( Union Club 2005 年次総会 Speech 鈴木 登 )